生の意味について

昨日は図書館でレポートを書いた。一昨日も図書館でレポートを書いたし、その前もその前も図書館で書いた。今日は貫徹してレポートを書いたし多分明日からもレポートに追われる生活を送ることになると思う。つらくて仕方がない。

それはそうと、最近自分が生きている意味について考えるようになった。

僕はなぜ生きているのだろう。

この生には意味があるのか。

ない。少なくとも今の僕は生には意味がないと考える。例えば僕がどんなことを成し遂げ、歴史に名を刻んだとしても、やがて人類は滅びるし、文明も滅びる。そしてこの地球も、太陽系も滅びる。だから僕を記憶している人が仮にいたとしても、その人もいなくなるし、僕の記憶するもの、愛したものも消えてしまうのだ。

宇宙を想像しよう。無限に広がる宇宙。宇宙を想像すると自分がなんてちっぽけで無力な存在なのかと感じるし、文明というものがくだらないものに感じる。これは幼いころから感じていたし、どうせみんな死ぬのだから楽して生きようとは思っていた。

僕が死んだら何になるのか。多分何もならない。家族くらいは涙を流してくれるかもしれないが、無である。もしかしたら無すらないかもしれない。そもそも”無”とは何なのか、”ある”とは何なのか。まあそれは置いておくが、僕は僕の意志とは無関係に生を受け、僕の意思とは無関係に死んでいく、自殺しない限り。僕が死んだら僕はいなくなるし何も残らない。だから今の僕も何もないのと同じである。要するにこの生には意味がないのである。

いまさらだが念のため言っておくと、本文中における「この生」とは他ならぬ「僕自身の生」という意味であり、僕以外の人間の生に意味がないと言っているわけではない。その他動植物も同様である。そもそも僕は他人や他のものの生については全く興味がないし、他人の人間関係なんてものもどうでもいいと考える。よく、休日のニュースバラエティーと称されるであろう番組で著名人の人間関係について騒いでるが、馬鹿らしくて仕方ない。

先日カフカの『変身』を読んだ。かなり有名な作品なので既知の方もいると思うが、ネタバレを避けて感想を書くと、作者の”命を絶ちたいという感情”が伝わってきた。それでも作者は自殺をせず、結局は病死したのだが、なぜ自殺をしなかったのか、なぜ『変身』という作品を書いたのか。それは生について多くの人に考えてもらうためだったのではないかと僕は思う。結局、生の何たるか。この答えは出なかったが(そもそも答えが出ていたらこうして記事を書いし、そう簡単に答えがでれば人間苦労しないだろう)。

 

変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)

 

 

 つまり何が言いたいかというと、僕が生の何たるかについて考えるうえで、”本を読む”ことは非常に効果的なものなのだ。もちろん本に答えが書いてあるわけではないし、本に書いてあることはその本の筆者にとってのものなので、僕にとってのものでない。だから僕自身が自分で考える必要がある。本はそのヒントを与えてくれる。

僕は現在仮想空間や人工知能といった分野に興味がある。例えば人間の脳が目という感覚器を用いずに視覚情報を入手できれば、例えば盲目の人でもハンディを負わずに生活することができるのではないかと思うし、人工知能の普及によって、人間の職が奪われるのではないかという議論があるが、僕個人としては多くの仕事を人工知能に任せて、人間は遊んで暮らすべきだと考える。なぜなら大昔の人からすれば現代の仕事の多くは遊びのようにしか見えないと思うからである。

とにもかくにもこれらの分野で研究をするためには様々な分野の知識が必要であり、それらの多くは本から得られると思う。つまり、僕が自分の生の何たるかを考える上で必要な、基礎となる知識も、実質的な勉強をする際の知識も、本を読むことによって得られるし、本を読むことでしか得られないものもある考える。前回の記事でも書いたように、今年度の目標として「自分の生の何たるかを考える→本を読む」を一つに挙げた。具体的な目標冊数は決めてないが、あまり多すぎてもかえって頭に入らない可能性があるし、小説と学術書では読了までの時間に大きな差があることも考慮すると、50~70冊くらいが妥当ではないかと考える。(岩波文庫を100冊読むと、文学部に4年通うくらいの知識が得られると聞いたことがあるので、岩波文庫は学部卒業までにそれくらいは読みたい)

 

ある種の人間にとってはこの「自分の生の意味」とは些末なことであり、こんなことを考えるのに時間を使うくらいなら実質的な勉強をしたりTwitterで自己顕示欲を満たした方が良いと考える人もいるかもしれない。もちろん人の数だけ価値観も異なる。ただ、僕にとってそんな人とは、最も根源的な問いから目を背け、惰性によって生を終了させる人間にしか映らない。これも価値観の相違である。